中央墓地,ソ連軍捕虜・戦没者の区画 Opferbereich der sowjetischen Kriegsgefangene im Wiener Zentralfriedhof
いやー帰国して早速インフルエンザにやられ,抵抗力を失ったところで風邪を患い,そんな中迎えた繁忙期…「自分の家は寒い」なんておめでたい事を書いていた時はただ疲れていただけで元気はあったんですが,坂を転げ落ちました…。帰国して2週間しか経っていないのに,パリはもう大昔の事だったように思えます。ヴィーンは猶更。
大量の写真と格闘する気力体力をやっと取り戻したのでぼちぼち回顧録を認めようと広げ,眺めながら思い出すありさまでした。
それでは冬休み最初の記事を。
自分の人生とは無関係な願掛けの為,中央墓地に行って来ました。用はすぐ済んだけれど特に急いで町に帰る必要もなかったので,いつも諦めていたソ連兵の区画を観る事にしました。
観光客が目標とする楽聖やら文豪やらの有名人墓地は門をくぐってすぐのところにありますが,大体欧州の墓地と云う物は自転車が欲しくなるくらい広く,他国軍の戦没者のように一定数存在する外国人の集団は一等地には配置されにくいものです。この中央墓地の場合珍しいくらい好条件(と云うのもなんですが…)な場所が確保されていて,表門からそんなに奥まっていません。それでも今まで諦めていたのは,墓地自体が巨大な為,奥まっていなくても遠い事に変わりはないからに他なりません。
モニュメント好きだからなんでしょうけど,こうした像とか塔とか,要するに墓所本体以外の構築物が複数あって,どれが中心なんだか測りかねますが,花環が置かれている尖塔がそうなんじゃないかな,と想像しました。
偶像崇拝…と言ってはいけないんでしょうが,ソはつくづくこう云う演出が好きだなーと,ベルリンのアレを思い出しながら考えます。
ひとりは勇ましく前方を睨み,もうひとりは寂しそうに俯いているのが印象的です。
あからさまにソとわかる演出に事欠かない割に,先頭の下に置かれた花環には独語。しかもこの色遣いはオーストリア国旗から来ていると思われます。どうもこのオーストリア黒十字とは,超党派でやっている戦没者,亡命者,政治難民の墓地保全機関らしく,対象はオーストリア人に限らないそうなので至極まっとう。勉強になりました。
墓には色んな形態があり,冗談左は一般兵,右は戦功を挙げた一般兵…なんだろうか?没年月は殆ど1945年の4月です。ヴィーン攻勢のソ連側の犠牲者が葬られてるんですね。右の墓石には生年も刻まれていますが,その若さが痛い。下段左はちょっと立派な集合墓(?),右は単独の墓石。縦型の大きな墓は5基ありましたが,その中でもこれが最大だったと記憶しています。
集合墓(?)のてっぺんにはお決まりの「自由と独立,我等が祖国の為の戦いに散華した英雄たちに永遠の栄光あれ」…くらいのお言葉,列挙されているのは軍曹と赤軍兵の名。右の墓はレフ・オレホフスキーなる中尉の物らしいですが,それ以上の事は判りません。
この日に限らず,私がヴィーンにいた間は珍しく寒く,最高気温がマイナス3℃でした。いつもは寒いと喜ぶところですが,さすがに墓地はキツかった。風を避けられないし,熱を発する存在がほぼゼロと云う状態ではマイナス3℃以上にも思われました。急いで町に帰る必要もなかったとは申し上げましたが,この区画を観た後はさすがにキツくなり,他の区画はまたの機会に…。
大量の写真と格闘する気力体力をやっと取り戻したのでぼちぼち回顧録を認めようと広げ,眺めながら思い出すありさまでした。
それでは冬休み最初の記事を。
自分の人生とは無関係な願掛けの為,中央墓地に行って来ました。用はすぐ済んだけれど特に急いで町に帰る必要もなかったので,いつも諦めていたソ連兵の区画を観る事にしました。
観光客が目標とする楽聖やら文豪やらの有名人墓地は門をくぐってすぐのところにありますが,大体欧州の墓地と云う物は自転車が欲しくなるくらい広く,他国軍の戦没者のように一定数存在する外国人の集団は一等地には配置されにくいものです。この中央墓地の場合珍しいくらい好条件(と云うのもなんですが…)な場所が確保されていて,表門からそんなに奥まっていません。それでも今まで諦めていたのは,墓地自体が巨大な為,奥まっていなくても遠い事に変わりはないからに他なりません。
モニュメント好きだからなんでしょうけど,こうした像とか塔とか,要するに墓所本体以外の構築物が複数あって,どれが中心なんだか測りかねますが,花環が置かれている尖塔がそうなんじゃないかな,と想像しました。
偶像崇拝…と言ってはいけないんでしょうが,ソはつくづくこう云う演出が好きだなーと,ベルリンのアレを思い出しながら考えます。
ひとりは勇ましく前方を睨み,もうひとりは寂しそうに俯いているのが印象的です。
あからさまにソとわかる演出に事欠かない割に,先頭の下に置かれた花環には独語。しかもこの色遣いはオーストリア国旗から来ていると思われます。どうもこのオーストリア黒十字とは,超党派でやっている戦没者,亡命者,政治難民の墓地保全機関らしく,対象はオーストリア人に限らないそうなので至極まっとう。勉強になりました。
墓には色んな形態があり,冗談左は一般兵,右は戦功を挙げた一般兵…なんだろうか?没年月は殆ど1945年の4月です。ヴィーン攻勢のソ連側の犠牲者が葬られてるんですね。右の墓石には生年も刻まれていますが,その若さが痛い。下段左はちょっと立派な集合墓(?),右は単独の墓石。縦型の大きな墓は5基ありましたが,その中でもこれが最大だったと記憶しています。
集合墓(?)のてっぺんにはお決まりの「自由と独立,我等が祖国の為の戦いに散華した英雄たちに永遠の栄光あれ」…くらいのお言葉,列挙されているのは軍曹と赤軍兵の名。右の墓はレフ・オレホフスキーなる中尉の物らしいですが,それ以上の事は判りません。
この日に限らず,私がヴィーンにいた間は珍しく寒く,最高気温がマイナス3℃でした。いつもは寒いと喜ぶところですが,さすがに墓地はキツかった。風を避けられないし,熱を発する存在がほぼゼロと云う状態ではマイナス3℃以上にも思われました。急いで町に帰る必要もなかったとは申し上げましたが,この区画を観た後はさすがにキツくなり,他の区画はまたの機会に…。
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