ベルリンのロシア人墓地 Friedhof der russisch-orthodoxen Gemeinde
私の世界に突然ロシアが割り込んで来てから数年。正教会への興味は相変わらずで,当地の正教会を訪ねる事にしました。
先ずは在ベルリンの元ロシア人(この“元ロシア人”,世界に結構いますよね。そんなに気軽に生まれた国を捨てられるもの??)に教わったうち,最も素晴らしいとされた正教会へ。最寄りの地下鉄駅にはロシアンショップがあり,冷やかしに入ってみたら店員でもなんでもないオッサンにやたらフレンドリーに応対されました。
[ここでBloggerのフォーマット改訂に関するモンクを。なんでこの画像,ひとつ上のやつの横に置けなくなったのか!こりゃディスプレイの形状で相当いろんな体裁になる事請け合い。怒り新党…いや心頭であります]
このオッサンと店員の御婦人に正教会について問い合わせると,なんたる事かその正教会は毎日13時までしか開けていないと。学校に通っていたら絶対に間に合いません。第1週目の平日夕方に出向いたので,「それなら日曜にまた来るか」と思いつつ,仕方ないので断念。この時,オッサンはこの正教会とは別の場所にあるロシア人墓地を教えてくれました。曰く,「第一次世界大戦で戦死した兵をロシアから運ばれた土で埋葬している」と。
日曜日。朝ダラダラしてしまった私がやっと支度を整えたのはそろそろ昼かと云う頃でした。どうにか頑張れば初めの正教会が開いているうちに着けそうでしたが,ここよりもロシア人墓地への興味が大きくなっていたので,私は「同じ13時までなら」と,ロシア人墓地に向かう事にしました。
同じ正教会だからこっちも13時までとは限らないものの,事前調査もしないで直接出向いたワケですから我ながら無謀ではありました。でも幸い正教会は開いていました。正教会では祈りの品が売られており,私も何かしら欲しくなったんですが,店番のオバチャンは露語しか喋れず,私の露語はいまだ使い物にならない…オバチャンは近くで祈っていたロシア紳士を呼びつけ,私に独語で説明するように言いました。紳士の説明は,言語的にはよく解りました。が,宗教的理念や「祈ってれば大丈夫」と云った感覚を理解するには,私は即物的に生き過ぎているようでした。
紳士には「祈りの品々は洗礼を受けた者が持って初めて御利益を得られるものであり,これは芸術品ではない」と諭されました。これを聴いてしまうと土産物屋的なノリで物を買ってはならない気がしてきますが,観光地ではイコンを平気で非信者に売っています。その意味においては,ここは正しい祈りの場だったのでしょう。
この紳士は私に詳しい講釈をたれたのち,「時間だ。茶を飲もう。こっちに来なさい」と私を連行しようとします。私はこの時点で既に紳士がロシアンショップのオッサンとは違ってチャラけたタイプの人間ではないと見積もっていましたが,意図までは読めません。「茶って…どこで?」「近くの別棟。人がいっぱい集まってる」「アタシが入ってもいいの?」「勿論だよ,早く来なさい」「アナタもいるの?」「いるよ。心配ないから来なさい」と,このような問答の後,敷地内の建物に連れて行かれ,30人くらいだったかなぁ,食卓を囲む人々の中に放り出されました。頼りにしていた紳士は隣に座ってはくれず途方にくれる私。ひええ,何これ!
聞こえて来るのはロシア語だけ,ロシア的な顔つきをした人々が談笑しつつ目の前の食べ物にありついています。前菜っぽい物とスイーツが山と盛られ,これでもかとばかりに追加投入されます。紳士に捨て置かれた私はほぼ同時にここに来て隣に座った御婦人に「これはなんなの?」と訊きました。女史は「教会で祈って,終わったらここに来てみんなで喋るの」と返答。この人はウクライナからやって来てベルリンのカジノで働いていると言っていました。確かに昼より夜と云う顔をしていました。向かいに座った事情通らしき若い婦女が補足説明を買って出てくれました。「日曜学校だよ。祈り終わったらここで神について勉強して,信徒と語り合うんだよ」「語り合うって何を?」「毎日の事とか神の事とか,なんでもいいの」「どうやって勉強するの?」「今テープで流れてるでしょ」「でも誰も聴いてないよ」「それでいいの」と…。
婦女は上手に独語を話していました。その夫と見られる隣の若い殿方は「仕事場で独語を使ってないんだ」と流暢な英語で一緒に会話。皆さん感じよく,完全アウェイの,洗礼を受けるつもりもない異教徒の私を,歓待してくれました。
そうこうしているうちに神品が立ち上がり,皆さんそちらを向いて神品のお言葉(勿論全く理解出来ません)を復唱。神品はそうして場を去り,人々も帰り始めます。私はとにかくワケが判らず,居るべきなのか出るべきなのか決めかねていましたが,自分の周りに座っていた人が動く気配を見せなかったので,なんとなく座っている事にし,その人達と会話。やけに独語が上手いさっきとは別の紳士が墓地について教えてくれ,ロシアンショップのオッサンからよりよほど詳しく知る事が出来ました。ここには無名戦士のみならず,グリンカを筆頭に文化人も葬られていると。
氏が自分のスマートフォンで見せてくれたサイトによると,私憧れのエイゼンシュテインまで葬られているではありませんか!これは拝んで行かねばと思い,その紳士と隣席の婦女と3人で外に出,婦女とはそこで別れ,紳士が敷地内にある露語による(独語がない!)墓地案内を見つつグリンカの墓を示してくれましたが,エイゼンシュテインの墓については情報がありません。氏が素晴らしい独語を話すのは当然,正教の洗礼を受けたドイツ人だったんです。「カトリックもプロテスタントも本来の宗教的意味を失っている,正教にはそれがまだ残っている。だから僕は洗礼を受けたんだ」と言っていました。この人の実家が教会から離れていた(立地の事を言っているのではない)ので,改宗と云うワケではないそうです。奥さんはシベリア出身のロシア人(この奥さんも独語が上手でした)。私は紳士に礼を言い,歩き回って墓を探す事にしました。
※この日曜学校への参加が,当日ベルリンで申し上げた「衝撃的に面白いネタ」 でした。自分自身,実際の場に身を置きつつ,「こうやってアタシが困っているところを日本のお友達が観たらさぞ面白がっただろう」と思っていました。こう云う自虐的な笑いは日本にしかないんでしょうか。多分欧州のお友達にこの事を話しても,誰も笑ってはくれないでしょう。
先ずは在ベルリンの元ロシア人(この“元ロシア人”,世界に結構いますよね。そんなに気軽に生まれた国を捨てられるもの??)に教わったうち,最も素晴らしいとされた正教会へ。最寄りの地下鉄駅にはロシアンショップがあり,冷やかしに入ってみたら店員でもなんでもないオッサンにやたらフレンドリーに応対されました。
[ここでBloggerのフォーマット改訂に関するモンクを。なんでこの画像,ひとつ上のやつの横に置けなくなったのか!こりゃディスプレイの形状で相当いろんな体裁になる事請け合い。怒り新党…いや心頭であります]
このオッサンと店員の御婦人に正教会について問い合わせると,なんたる事かその正教会は毎日13時までしか開けていないと。学校に通っていたら絶対に間に合いません。第1週目の平日夕方に出向いたので,「それなら日曜にまた来るか」と思いつつ,仕方ないので断念。この時,オッサンはこの正教会とは別の場所にあるロシア人墓地を教えてくれました。曰く,「第一次世界大戦で戦死した兵をロシアから運ばれた土で埋葬している」と。
日曜日。朝ダラダラしてしまった私がやっと支度を整えたのはそろそろ昼かと云う頃でした。どうにか頑張れば初めの正教会が開いているうちに着けそうでしたが,ここよりもロシア人墓地への興味が大きくなっていたので,私は「同じ13時までなら」と,ロシア人墓地に向かう事にしました。
同じ正教会だからこっちも13時までとは限らないものの,事前調査もしないで直接出向いたワケですから我ながら無謀ではありました。でも幸い正教会は開いていました。正教会では祈りの品が売られており,私も何かしら欲しくなったんですが,店番のオバチャンは露語しか喋れず,私の露語はいまだ使い物にならない…オバチャンは近くで祈っていたロシア紳士を呼びつけ,私に独語で説明するように言いました。紳士の説明は,言語的にはよく解りました。が,宗教的理念や「祈ってれば大丈夫」と云った感覚を理解するには,私は即物的に生き過ぎているようでした。
紳士には「祈りの品々は洗礼を受けた者が持って初めて御利益を得られるものであり,これは芸術品ではない」と諭されました。これを聴いてしまうと土産物屋的なノリで物を買ってはならない気がしてきますが,観光地ではイコンを平気で非信者に売っています。その意味においては,ここは正しい祈りの場だったのでしょう。
この紳士は私に詳しい講釈をたれたのち,「時間だ。茶を飲もう。こっちに来なさい」と私を連行しようとします。私はこの時点で既に紳士がロシアンショップのオッサンとは違ってチャラけたタイプの人間ではないと見積もっていましたが,意図までは読めません。「茶って…どこで?」「近くの別棟。人がいっぱい集まってる」「アタシが入ってもいいの?」「勿論だよ,早く来なさい」「アナタもいるの?」「いるよ。心配ないから来なさい」と,このような問答の後,敷地内の建物に連れて行かれ,30人くらいだったかなぁ,食卓を囲む人々の中に放り出されました。頼りにしていた紳士は隣に座ってはくれず途方にくれる私。ひええ,何これ!
聞こえて来るのはロシア語だけ,ロシア的な顔つきをした人々が談笑しつつ目の前の食べ物にありついています。前菜っぽい物とスイーツが山と盛られ,これでもかとばかりに追加投入されます。紳士に捨て置かれた私はほぼ同時にここに来て隣に座った御婦人に「これはなんなの?」と訊きました。女史は「教会で祈って,終わったらここに来てみんなで喋るの」と返答。この人はウクライナからやって来てベルリンのカジノで働いていると言っていました。確かに昼より夜と云う顔をしていました。向かいに座った事情通らしき若い婦女が補足説明を買って出てくれました。「日曜学校だよ。祈り終わったらここで神について勉強して,信徒と語り合うんだよ」「語り合うって何を?」「毎日の事とか神の事とか,なんでもいいの」「どうやって勉強するの?」「今テープで流れてるでしょ」「でも誰も聴いてないよ」「それでいいの」と…。
婦女は上手に独語を話していました。その夫と見られる隣の若い殿方は「仕事場で独語を使ってないんだ」と流暢な英語で一緒に会話。皆さん感じよく,完全アウェイの,洗礼を受けるつもりもない異教徒の私を,歓待してくれました。
そうこうしているうちに神品が立ち上がり,皆さんそちらを向いて神品のお言葉(勿論全く理解出来ません)を復唱。神品はそうして場を去り,人々も帰り始めます。私はとにかくワケが判らず,居るべきなのか出るべきなのか決めかねていましたが,自分の周りに座っていた人が動く気配を見せなかったので,なんとなく座っている事にし,その人達と会話。やけに独語が上手いさっきとは別の紳士が墓地について教えてくれ,ロシアンショップのオッサンからよりよほど詳しく知る事が出来ました。ここには無名戦士のみならず,グリンカを筆頭に文化人も葬られていると。
氏が自分のスマートフォンで見せてくれたサイトによると,私憧れのエイゼンシュテインまで葬られているではありませんか!これは拝んで行かねばと思い,その紳士と隣席の婦女と3人で外に出,婦女とはそこで別れ,紳士が敷地内にある露語による(独語がない!)墓地案内を見つつグリンカの墓を示してくれましたが,エイゼンシュテインの墓については情報がありません。氏が素晴らしい独語を話すのは当然,正教の洗礼を受けたドイツ人だったんです。「カトリックもプロテスタントも本来の宗教的意味を失っている,正教にはそれがまだ残っている。だから僕は洗礼を受けたんだ」と言っていました。この人の実家が教会から離れていた(立地の事を言っているのではない)ので,改宗と云うワケではないそうです。奥さんはシベリア出身のロシア人(この奥さんも独語が上手でした)。私は紳士に礼を言い,歩き回って墓を探す事にしました。
※この日曜学校への参加が,当日ベルリンで申し上げた「衝撃的に面白いネタ」 でした。自分自身,実際の場に身を置きつつ,「こうやってアタシが困っているところを日本のお友達が観たらさぞ面白がっただろう」と思っていました。こう云う自虐的な笑いは日本にしかないんでしょうか。多分欧州のお友達にこの事を話しても,誰も笑ってはくれないでしょう。
正教会は最初に行ったところよりもこぢんまりとしています。中も狭く,日曜学校に参加していた全員が入る事は出来なかったんじゃないかと思う規模でした。この柱の意味するところは,ドイツ人紳士が教えてくれたにも関わらず,脳に定着しなかった…。
ロシアンショップのオッサンが言及したのはこれです。ただ,これは墓地のほんの一角を占めるのみであり,この事にしか触れなかったオッサンはよっぽどの戦史ファンなのかよっぽど文化的な事柄に興味がないのか…。
リーガに行ってすっかり好きになってしまったエイゼンシュテイン。墓碑はかなり不鮮明でしたが,執念で探しました。読めてよかったキリル文字。ユーゲントシュティールの雄だった本人の墓にそれらしき様式はまるでなく,以下お示しするグリンカのような特別扱いもまるで受けた形跡なく,市井のロシア人となんら変わらぬ小さい区画に葬られていました。
私はやっとの事で見つけたこの墓を記録し,帰りがけ,ドイツ紳士に見せに行きました。
これがそのグリンカの墓です。ここだけはヴィーンの中央墓地,音楽家区みたいな御立派さ。私にとって音楽は美術工芸や建築に較べればいくらでも捨てられる物ですから,エイゼンシュテインとの落差にはちょっと悲しくなりましたが,まぁ,正真正銘のロシア人とバルトドイツ人(だからここではエイゼンシュテインと書いていますが,ドイツ紳士とはアイゼンシュタインで通しました)では待遇が違っても仕方ないのかも知れません。グリンカの方が世界的には知られていて偉大なのかも知れませんし。
グリンカ以外の作曲家の墓もここにありました。ヴラディーミル・ブーニンと云うそうですが,これがまた調べても殆ど情報がなく,ソ連邦時代の音楽家だと云うところで止まってしまっております。没地がモスクワのブーニンは見つけましたが,それならわざわざここに葬られるでしょうか。うーんなんなんだ。今度ロシア人のお友達に訊いてみようか。
ロシアンショップのオッサンが言及したのはこれです。ただ,これは墓地のほんの一角を占めるのみであり,この事にしか触れなかったオッサンはよっぽどの戦史ファンなのかよっぽど文化的な事柄に興味がないのか…。
リーガに行ってすっかり好きになってしまったエイゼンシュテイン。墓碑はかなり不鮮明でしたが,執念で探しました。読めてよかったキリル文字。ユーゲントシュティールの雄だった本人の墓にそれらしき様式はまるでなく,以下お示しするグリンカのような特別扱いもまるで受けた形跡なく,市井のロシア人となんら変わらぬ小さい区画に葬られていました。
私はやっとの事で見つけたこの墓を記録し,帰りがけ,ドイツ紳士に見せに行きました。
これがそのグリンカの墓です。ここだけはヴィーンの中央墓地,音楽家区みたいな御立派さ。私にとって音楽は美術工芸や建築に較べればいくらでも捨てられる物ですから,エイゼンシュテインとの落差にはちょっと悲しくなりましたが,まぁ,正真正銘のロシア人とバルトドイツ人(だからここではエイゼンシュテインと書いていますが,ドイツ紳士とはアイゼンシュタインで通しました)では待遇が違っても仕方ないのかも知れません。グリンカの方が世界的には知られていて偉大なのかも知れませんし。
グリンカ以外の作曲家の墓もここにありました。ヴラディーミル・ブーニンと云うそうですが,これがまた調べても殆ど情報がなく,ソ連邦時代の音楽家だと云うところで止まってしまっております。没地がモスクワのブーニンは見つけましたが,それならわざわざここに葬られるでしょうか。うーんなんなんだ。今度ロシア人のお友達に訊いてみようか。
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